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Vol.2≪創業の辛く懐かしい日々≫
日本工業新聞/平成3年(1991年)8月7日(水)
「みな、ようがんばりましたなぁ」
戦後すぐの四条大宮時代の思い出を聞くと、涙ぐんでしまうベテラン社員もいる。そのころ、フジタカの前身である木工会社は、たばこウィンドを専門に作っていた。あの看板娘がたばこを一箱ずつ渡してくれた、昔懐かしいたばこ店の小売窓口である。
たばこウィンドは、独自の技術を要し、作る人も少なかった。注文を受けると、一人で一ヶ月もかかって、曲げウィンドと呼ばれる本体を作り、窓の腰には大理石を張った。本体ができると、二人がかりで組み立て、続いてガラスやペンキ、タイルの職人さんが仕上げをした。
人手も時間もたっぷりかかる。店構えは一軒ずつちがう。量産も量販も機械化もない仕事だった。もともと、前社長で現会長の高井富太郎が、大正六年に小学校を出て、大阪の安田製作所に入り、木工職人の修行をしたのが始まりである。
十数年の修行のあと安田製作所の京都地区をまかされ、昭和九年には四条大宮で開業した。まもなく戦争で、たばこも配給制になり、ウィンドづくりの注文も来なくなった。やむなく廃業である。その間、昭和六年に長男・保治が誕生している。
戦後、富太郎は仲間三人と仕事を再開した。二十五年には株式会社を設立した。富太郎をふくめ六人。資本金五十万円。会社名は安田製作所であった。
営業地域の京都市内や亀岡、園部、大津などで注文をとり、帰っては作る毎日。休みは月に二回。月二、三回は徹夜作業。騒音に近い近所から苦情が出たりした。
製品を運ぶのは自転車か、自転車で引くリヤカーなどである。ウィンド価格は五万円から七万円。月三十本ほど売れた。創業の年、年商1千三百万円という記録が残っている。
これ以上の発展にはなにが必要か。家業を手伝い始めた保治は仮説をたてた。仮説をたてて進む、という保治の行動規範はこのころすでに始まっている。「必要なのは量産化と多能化である」という仮説であった。
まず量産化には、商いのエリアを広げなければならない。
だが、たばこウィンドは地域性の強い商品である。拠点をつくらなければならない。南の大阪方面は、大阪の安田製作所のエリアである。東へ、名古屋へ出よう。調べると、名古屋は強力な同業者が多く、苦戦が強いられそうである。出先をまず北陸・金沢へ振り替えた。
金沢営業所の開設は、昭和三十二年三月。注文とりにスクーターで走りまわった。その経験をもとに翌年三月、名古屋営業所を開いた。名古屋などで注文を受けると、営業マンが図面を速達で京都の本社へ送り、本社で製作する。
このころのウィンドは、ステンレス巻き、ガラスエッチングのらんま、タイル張りの腰。一台の製作所に一週間。製品は別便で現地へ届け、本社のサービスマンが出張して据え付けた。
その間に、社員も二十人前後に増えていた。エリアも広げ社員を増やして、量産・量販化への道はついた。次に多様化である。一人の技術者であらゆる注文に応じられるように、ということである。<敬称略>

<文・村上 順一郎>

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